なみえの今

帰還困難区域 大昼行政区の今

2021年3月15日

こんにちは、支援員今野です。

東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から丸10年を迎えました。


3月11日、全域が帰還困難区域である津島地区の中の大昼行政区を、佐々木保彦区長に同行し現状などを視察しました。

佐々木区長は原発事故の翌年あたりにも、今回と同様にカメラを持って行政区内の各戸を撮影して回ったそうです。一時立ち入りの日時を決める際に、いくつか候補日があったのですが「3月11日に合わせて立ち入ろうか」と、やはりこの日には特別な想いがあるのだなと感じました。

▲左に見えるのはJRバスが通っていた頃のバス停


各戸とも、庭先には冬枯れしているものの雑草が樹木のように生い茂り、長いツルがあちこちに絡みついています。
納屋では農機具や工具が、庭には自家用車が置いたままで、車庫が朽ち果てて車に覆いかぶさってしまっていました。
定期的に立ち入っている区長も「酷いなあ、こうなっちゃうんだなあ」と、着の身着のまま避難し放置されたままの地域の姿に、あらためて言葉を漏らしました。

▲「地域の皆に見てほしい」と区長


地域のちょっとした思い出話を聴くこともできました。
「小中学校の頃、川で水浴びしたり、魚を捕ったりしたんだよなあ。鮎や、鰻も捕れた」「捕った魚を家で料理して食べて…最高の贅沢だべ?」そんな話を伺いながら、聴こえてくる川のせせらぎの音。
自然に囲まれ、ともに暮らしていた地域。本当に贅沢な里山の暮らしだったんだと感じました。

▲綺麗な川の様子を覗くことができました


「今の集会所のそばが、昔は昼曽根の分校だったんだよ。我が家から近いから、ぎりぎりに登校しても間に合った。原浪トンネル(浪江町と南相馬市原町区に跨る道路トンネル)が通るとき、校舎は壊してしまったけど」そんなお話しも聞きました。
近くにあるお墓参りにも同行し「早く復興して、帰られるようにしてください」とご先祖様にお願いする区長と一緒に、私たちも手を合わせました。

▲昼曽根分校記念碑


114号線沿いにある「手作りの店マンマや」は区長の奥さんと仲間の皆さんでやり繰りしていたお店です。元々は農協の建物でしたが、簡易郵便局とマンマやを開き、食事や産直などの品々のほか、手芸品を扱ったりしていたお店でした。

▲特別通過制度の114号線沿いにあるマンマや
▲荒れ果ててしまったお店の中


3月12日朝に避難指示が出ると、114号線を通って避難する町民が8時過ぎから続々とやってきて、ここで食事など取られたそうです。「とにかく、作れるものを作って出した。材料は全部使った」と区長は話しました。

区長らは残った津島の人たちをバスで二本松市の避難所に運ぶなどし、15日ごろまで津島にいたそうです。「手七郎の集会所に避難して泊まったりしていたけど、何しろ寒いし、余震も続いたなあ」などと、当時のことを振り返りました。

▲お店の中のカレンダー、あの当時のままです


マンマやさんでは原発事故が起きる20年ぐらい前から、地域内でつくった「夫婦の会」の6組が、月に1回集まって交流を深めていたそうです。旅行をしたり、色々なことをずっとやっていました。「仲間は大事にしないとね」今は散り散りになってしまっていますが、そんなことを話してくれました。

カメラを片手に熱心に、行政区内の家々を撮影する佐々木区長の姿が印象的でした。トゲを持った草木も生い茂ってしまっている中、それらをかき分けて撮影していく区長の姿には地域への愛情をあらためて感じました。ご自宅よりも他の家屋に長い時間をかけて撮影し「こんなになってしまってなあ」と悔しがる区長の姿。人と人とのつながりが強い地域だったのだと、静かに感じました。


丸10年を迎えましたが「まだまだ何も進んでいない、あの時のまま」の場所があることを、あらためて感じた1日でした。

▲花が咲いているのを確認し、撮影する区長が印象的でした


私たち地域づくり支援専門員も「豊かな暮らしがあった津島の様子を、もっと知ってもらいたい」そんな想いで、地域の写真展を企画しました。

津島の皆さんから集めた、原発事故前の写真20点以上を展示した「懐かしのふるさと津島写真展」を道の駅なみえのギャラリーコーナーで開催しています。

▲A1パネルで12枚を展示しています

▲津島の温かく豊かな暮らしを感じてください


ぜひご覧頂いて、避難区域になる以前の津島やこれまでの10年という年月のことなど、ひとり一人が考えて思いをはせて頂ければと思っています。

道の駅なみえの営業時間は10時から19時まで。写真展は3月28日(日)まで開催しています。期間中、17日(水)は定休日となっておりますのでご鑑賞される場合はご注意ください。


よろしくお願いいたします。